いろんな問題を解決していると少しずついろんなこだわりが減ってきました。

こうでなくてはいけない、そうしなきゃと自分を縛っていた思いから解放される感覚があります。大抵のことは、その時の感情を受け止めていくうちに「ま、いいか」とやり過ごすようになってくるのです。

あれこれ説明したくなったり、言い訳をしたくなったりすることがずいぶんと減ってきました。

 

それはどうしてかなと考えてみると、どうやら私はすべての人に受け入れてもらわなくてはいけないと思っていたようです。すべての人の期待に応えて「いい人」でいなくてはいけないと思っていたのです。

 

いい人というのは「完璧な人」とはまた少し違います。やさしく誠実であるというような、一般的ないい人像もありますが、それとは別に、そこそこ抜けているところもあるし、たまには失敗もする、だけど多くの人の平均あたりに位置することで、だれの気分を害することもない人という感じの方がより近いような気がします。そのためには自分の欠点は何としても努力して隠し、また長所は人目を惹かないように出すぎないようにして隠す必要がありました。

そうすることで周囲の人が嫌な思いをしないと思っていたのです。

 

つまり周囲の人に受け入れてもらうために、いろいろな場面で「ふり」をする必要があったのです。そのためにはたくさんの説明や多くの言い訳が必要だったのです。ある程度の演出が必要だといえばわかりやすいでしょうか。

そしてそのいい人でいる理由をもっと探していくと、人に嫌われたくない気持ちがありました。

私にとって誰かに嫌われるということは自分の存在価値を否定されるようなことでした。

頭ではすべての人に好かれることは不可能と分かっているのに、なぜかすべての人の期待に応えようとしているのです。そして期待に応えないと人に嫌われるという結果が待ち受けている気がしていました。

 

人の期待に応えられない時の自分の心を見つめていくと、ただ悲しい気持ちが沸き上がりました。人の期待に応えられない自分を感じるとそこには深い悲しみが隠されていたようです。どうやらそれは小さなころが親の期待に応えたい気持ちとつながっていたようです。

 

小さなころは狭い世界で生きていますから親の期待に応えることはとても大切なことだったかもしれません。でも、大人になって世界が広がった今となってはすべての人の期待に応えるなんて不可能です。

そして期待に応えないと嫌われる気持ちにも目を向けます。嫌われるとどうなるのか・・・・・やはりここでも悲しい気持ちがわいてきます。

 

そして感じきってそこに残った気持ちを味わってみると、不思議なことに「ただそれだけのこと」という感覚がありました。

そう、人に嫌われても、つきつめてみれば「ただそれだけのこと」なのです。

それはこの世の終わりでもなければ、生きる価値のない人生でもなければ、もしかしたら日常的にもありうる「ただそれだけのこと」なのです。

 

誰かに嫌われたからと言って生きていけないなんてことはない、心からその感覚に確信を持てました。

たとえばそれが大切な人であったとしても・・・・。もちろんそれはそれは悲しいことかもしれません。それでも人生の選択の判断の基準はその人に嫌われるかどうかではなく、自分の心の中にあるのです。

 

そう思うと逆に二人でいることに大きな意味があるように感じられました。

この人に嫌われてもいいと思うと不思議に以前より相手を大切に思う気持ちがわいてきました。

 

ありのままを受け入れるということ。いところも悪いところも、どっちもあって一つの人格だということ。

いいとこばかりの人はいない。悪いところも認めてこその受け入れるということ。それは自分も周囲の人も同じこと。いいところだけを受け入れるのではその人を受け入れていることにはならないのです。そして大切な人にも好きな人にも嫌なところはあって当たり前。人格の核にある部分、相手の存在そのものを愛していることと表面上の行動や癖を嫌だと思うこととは別なのですから。

好きな人だから欠点や短所を見ないようにするのではなくて、嫌なものは嫌でいいと受け入れることによって、もしかしたら気にならなくなるのかもしれないし、あるいは二人の間で解決策が出てくるのかもしれないということです。

そう思うと自分の短所も受け入れてもらえる気がしてきます。

 

日々の生活で「ふり」をしているのは大変ですよね。・・・・・ありの~ままの~♪