自分がたくさんの気持ちと向き合って変化を感じてくると、ふと以前の自分と全く違う感覚に気が付くことがあり、そしてそれはとても心地よいものでした。

考えてみたら、カウンセリングでは毎回自分がどう変わりたいかだけを扱っていくのだから、当たり前といえば当たり前です。でも心地よさを実感すると、そばにいる彼にも変わって欲しい、楽になって欲しい、そんな気持ちが少しずつ沸きあがります。

 

いろんな不都合な考え方の癖に気が付いて、その結果とても楽しいやり取りが増えて、自分ばかりじゃなくて、彼だって変わってくれたら・・・そんな気持ちがありました。忙しいのは私だって同じ。二人のしあわせのために私はこんなに変わったのに、彼だって変わればいいのに・・・そんな思いです。

 

でも、人と過去は変えることができない・・・んだそうです。変わることができるのは、今ここの自分だけ。

未来なら頑張ったら変えられそうな気がするけれど、それはあくまでも変わるかもしれないという確率がどれほどかあるという話。決して約束された変化ではないのです。言われてみると確かにそうだなぁと思いました。

今ここの感じ方を変えることができるのは、自分の感情の世界の主人公は自分だからといえばわかりやすいでしょうか。

たとえ彼のために変わった・・・のだとしても、変わる選択をしたのは自分。最後の最後に決めるのは自分。主人公は自分で、変わりたいと思ったから変わったのです。


だけど、私のため二人のために、でなくてもやっぱり彼にも楽になって欲しい。好きだからこそ変わって欲しい。

そんな風に思う気持ちは止めることができません。それがなんだかストレスになってきていると感じました。

変わって欲しい気持ちをみとめて、でも彼はカウンセリングを受けないし変わろうとはしないことを思うと、なんだか悲しい気持ちが胸いっぱいに広がりました。そしてその悲しい気持ちを感じていくと、やがてすっと胸が軽くなるような気がしました。

そうか、変わって欲しい気持ちを受け入れることは、相手が変わるかどうかとは別の気持ちなんだ。

 

カウンセリングを受ければ楽になることもあるけれど、もしかして人は悩んでいたい時もあるのかもしれません。

悩み考えることで気持ちを整理する時間も確かに必要かもしれません。しあわせな時間を過ごしていても怒りたいときはあるかもしれないし、今は頑張りたいということもあるかもしれません。それぞれの感じ方の世界の主人公はそれぞれ自分なのです。

それに、相手を何とかしてあげたい気持ちは、もしかしたら自分なら何とかしてあげられると思っている気持ちの裏返しでもあります。自分にも、誰にも人にはそんな力はないし、そしてそれはなんだか悲しいけれどやっぱり事実です。

 

例えば、彼が機嫌が悪いと自分のせいだと感じることがよくありました。

でもそういう意味で言うと、人は人を怒らせることはできない。怒るかどうかは本人が決めているのです。同じ状況でも怒る人とそうでない人がいる。だからそこで怒るかどうか、機嫌が悪いかどうかは本人の問題なのです。

 

もう少し言えば、だれかにしあわせにしてほしいと思っている間はしあわせにはならないということに気が付いたという感じがします。今しあわせかどうかは自分が決めるし、そして誰かにしあわせにしてもらうことはできないし、また誰かをしあわせにしてあげることもできないのです。しあわせになるのはあくまでも自分の、本人の力なのです。

 

それぞれの感情や感じ方の責任はそれぞれにある。人はどうすることもできない。

 あらためて自分の問題ということの意味について深く気がつきました。

 

そうして変わって欲しい気持ちを持て余すことが少なくなると、不思議なことになんとなく彼の変化に気が付くようになりました。コミュニケーションというものは相手があって成り立つもので、片方が変わることによってその反応には当然変化があります。そうして交流が変わることで相手の反応もまた変わってくる、そういうことがあるそうです。

確かに質問の仕方が変われば返す答えも変わるでしょう。

つまりは、相手に変わって欲しい気持ちをあきらめることで逆に相手が変わった感覚を手に入れることができたということなのでしょうか。

 

こころの仕組みを知らないと、いつまでもないものねだりを続けていたのかもしれません。